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2006年12月29日 (金)

山田洋次と武士

 私は山田洋次監督の映画が好きで、寅さんシリーズはもちろん、高倉健主演の『遥かなる山の呼び声』など、挙げたらきりがない。それはなにより、山田洋次が人間をわかっているなあ、と思わせるからである。

 「美しい日本」はもはや、『男はつらいよ』と司馬遼太郎、藤沢周平の中にしかないのでは、と思う。

 そういう意味で、山田洋次が藤沢作品を取り上げたのは、必然という気がする。時代物2作目の『隠し剣 鬼の爪』は見事だった。最新作も期待できる。

 読売新聞の「時代の証言者」という囲い記事で、山田洋次が「時代劇の殺陣は動きがパターン化していて、あれでは隙がありすぎて斬られてしまう」旨の発言をしていたが、そのとおりだと思う。私も古武術の稽古会に行ったりしたのでよくわかる。さすがは山田洋次だ。宮本武蔵はべた足だったのである!今の剣道は単なるスポーツである。前後にぴょんぴょん跳ねている。

 記事によると、明治の古老の目撃談として、本物の果し合いは2,3時間もかかり、両者くたびれ果てた末に、一方が出血多量で倒れたという。じつに興味深い話だ。

 北野武の座頭市では、斬られはしても、決して斬ることは出来ない。

2006年12月27日 (水)

「忠臣蔵」について

 私は「忠臣蔵」が好きでない。まず、一人を殺すのに四十七人が死ぬのでは、効率が悪すぎる。しかも、やるなら一対一でやらねば卑怯である。もちろん、吉良邸の家人も複数殺したらしいが。

 常識的に考えて、刃傷沙汰が禁止されている松の廊下で、刀を抜いた浅野内匠頭側に非があるのは事実だ。吉良上野介に何を言われようとも、言葉で返すべきで、そこに少しの皮肉でも含めば、吉良も黙ったことだろう、「こやつ、やるな」と。その知恵もなくすぐ行動に出るのでは、あまりに幼すぎるではないか。

 また、吉良側の言い分も聞いてみなければ、吉良自身が悪かったのかどうかもわからない。毎年暮れになるたびに、吉良家の末裔の皆様は、忸怩たる思いをされているのではないか。私にはお気の毒に思われる。

吉良家の御当主には、ぜひテレビか何かで主張してほしい。しかし、テレビ局側がOKしないだろう。なんといっても「忠臣蔵」はドル箱なのだから。

浅野内匠頭は源義経のような人だったのでは、と想像する。それにしても、四十七人は多すぎる。その効率の悪さが日本人の琴線に触れるのだとしたら、社会保険庁その他の無駄遣いもわからんではない。効率の悪いのが好きなのである、日本人は。

泉岳寺に行った時、赤穂浪士の墓が並び、線香がもうもうと焚かれていたのを思い出す。

2006年12月26日 (火)

ジェットコースター

 男に比べて女のほうがジェットコースターを怖がらないのは何故なのか?私が長年疑問に思ってきたことである。

 私の場合、ディズニーランドの「スペースマウンテン」、「スプラッシュマウンテン」はもとより、「ぷーさんのハニー・ハント」でさえ恐ろしかった。「ハニー・ハント」は、動きが予測できないのと、直前に食べ過ぎたせいもあるかもしれないが、少し気持ち悪くなった。

 推測に過ぎないが、自分がもし戦場で、これから死ぬかもしれない前線の兵士だったとしても、これほどの恐怖感は感じないと思う。だって地上だから。男にとっては地上が一番安心なのである。ジェットコースターというものは、ひょっとして、安全を前提とした上で、空中という実体のないところを進むという矛盾が、恐怖感を生むのだろうか。

 なぜ女は、そういう状況を嬉々として楽しめるのか。もし落下している最中に、そのまま空中に放り出されたらどうする?その瞬間も笑っていられるのか?あははは、と。

 ううむ、ここには男と女の根本的な謎が存在するようだ。

 と、あれこれ考えることで恐怖を振り払いつつ、私は今、観覧車の頂上で、震えている。

2006年12月25日 (月)

M1グランプリを観て

 ご存知のとおり、漫才のコンテストである。「チュートリアル」というコンビが優勝した。それには異論がない。昨年の出来もすばらしかった。

 それより私が一番気に入ったのは、女性OLのアマチュア・コンビ「変ホ長調」であった。「フットボール・アワー」に代表される、中身のない不自然な設定の中で叫びあったり、勢いだけで押し切ろうとするコンビの中にあって、彼女たちは唯一社会性のある話題を織り込んだ展開で、実に楽しかった。

 ゆっくりしたテンポで、「どうやったらヒルズ族の合コンに参加できるか」という話を、風刺を交え、ある種自虐的に、トウの立ったOL二人が紡いでいくのである。たとえば女子アナになれば参加できるのではないか、それなら高橋秀樹の娘に生まれればいい、などと展開していく。

 げらげら笑った私は高得点を期待したが、審査員は非常に低い評価だった。とくに松本人志の点が低かった。コメントを求められた島田紳助も「おれにどう評価せえっちゅうねん」と、困っていた。

 彼らにはおそらく漫才はこうあるべき、という固定観念があって、いわば「漫才村の長老」つまり「権威」に「成り下がって」いて、社会の出来事や普通に働く人の感受性がわからないのである。それが観ていてどうにもつらかった。

 ひとつ救いなのは、中田カウスが、「彼女らはアマチュアのプロです。私は彼女たちの『間』に学ばなきゃいけない」と正当な評価をしていた点。私は、やや溜飲を下げた。

2006年12月23日 (土)

隣のけむり

 おとといから隣のおばさんが、もうもうと焚き火を炊き続けている。まったく、こちらは気管支炎で苦しんでいるというのに。

 隣の家の向こうは田んぼが広がっているため、常に風はそちら側から吹き、煙は私の方の住宅地が浴びることになる。田舎特有の無神経ぶりだ。ごみで出せばいいではないか。

 おそらく落ち葉を集めたのを焼いているのだろうが、その煙の量たるや、化学工場の火災並みである。しかし本人にはまったく煙が来ないため、ゆうゆうと焚いている。

 もうがまんがならない。私は意を決してバケツに水を汲み、裏の川沿いをつつっと進み、その焚き火に上からかけてやった。ジュウ。

 これでなんとか息がつける。そう思ったのもつかの間、また庭の別の場所で焚き始めた。ああ、頭に来る。自分の出した煙は自分がすべて吸え!それが自己責任ということだろうが!

そう思ったが、田舎というのはそんなもの。だいたい市民がそんな感じだから、自治体もそれと同じレベルになる。しかたがない。私がここを去ればいいのだ。

2006年12月22日 (金)

CDの100円ショップ化

先日いとこに、あるCDを勧めたところ、「ああ、じゃあ、インターネットで気に入った曲だけ買おうかな」といわれ、愕然とした。

ネットで1曲200~300円でダウンロードできることは知っていたが、それが普通に行われていることを初めて身近に感じ、一応演奏家を名乗る者として、これでいいのか、と思った。

アルバムというのは、全曲がいい出来というのは稀で、中に2~3曲あればいいほうだろう。しかし作り手にはどの曲にも愛着があるし、「他の曲の引き立て役を務める曲」というのも、あっていい。いいボクと駄目なボク、どっちも受け止めて!という感じだ。

お茶漬けが続いた後だから、ビフテキがいっそう旨いのだ。しかしビフテキばかり喰っていたら、どうなるか。それがビフテキかどうかさえ、わからなくなるのだ。

最近CD屋に行っても、安売りが目立つ。ブラウンやハバードが1000円で売られている。みんなが0と1に変換されていく世の中。

ああ、なんと恐ろしきデジタルとインターネットの跋扈だ!

2006年12月21日 (木)

神社と寺

 年の瀬が近づき、クリスマスや新年ももうすぐだ。一年ははやい。大晦日には今年も多くの人が、除夜の鐘を聞き、初詣に行くのだろう。

 いったい日本人は何教なのだろう、というのは今までも疑問に思ってきたが、最近、山本七平の本を読んで興味深いことを知った。

 明治元年(1868)、政府により「神仏判然令」というのが公布されるまで、神道と仏教は一体だったというのだ。寺の境内に神社があったり、神社に社僧といわれる坊さんがいたりしたという。

 なるほど、それなら寺に賽銭箱があってもいいわけだ、と変に納得してしまった。そのうち、神社にクリスマス・ツリーが飾られたり、寺の本尊にマリア像が置かれたりするかもしれない。それはそれで、無頓着な感じが、おおいに日本的でよろしい。

 と、思った篠突教教祖、雨次郎さまであった。

2006年12月20日 (水)

井上陽水と音楽家

 昨日、ユーミンの印象を書いたが、彼女を音楽の一方の端とすれば、対極にあるのは、井上陽水だろうか。

 彼の音楽を聴くと、基本的に短調で(おそらく70年代フォークを代表するような)、昔から同じことを繰り返しやっているのではという感じがする(日本人は短調の曲が得意?)。そして井上陽水の場合、歌い方と声が非常に特徴的で、濃い。

同じことといったのは否定的ではなく、音楽家は「同じこと」を繰り返す以外ないと私は思っているのである。それはつまり、その人自身が強烈な自我を持つことの逆証明であり、そうならざるを得ないのである。

音楽に限らず芸術家というのは、たいてい、個人にそれほどのアイデアのバリエーションはなくて、必死で時代時代の「包装紙」を変えて生きながらえるものでは、と思う。

そしてそのほうが、聴き手もキャラクター付けがしやすく、結果的に受け入れやすいのかもしれない。画家で言うと、私自身、なんでもできるピカソよりも、どれも同じのゴーギャンのほうが好きである。マイルス・デイヴィスにしても、各時代、有能なプレイヤーや作曲家を周りに配置したから、千変万化に見えるが、本人はあまり変化していない。

そう考えると、マッカートニーやユーミンのすごさが、また際立ってくるのだが。

2006年12月19日 (火)

ユーミンについて

 日本の音楽家でビートルズに匹敵する仕事を残しているのは、松任谷由実ではないだろうか。特に、荒井由実&キャラメルママ時代の曲は、さまざまなアイデアがあって、メロディーも美しい。

当初、私が持っていたユーミンのイメージは、なんだか一本調子な歌い方だなあ、とか、高音域になるとちょっとべチャッとするなあ、ぐらいのものだった。もちろん「卒業写真」「あの日にかえりたい」など、いい曲を書く人だというのは知っていたが。

ところがいざ聴いてみると、何の表情もないような声の出し方が、かえって透明度を増し、そこに聴き手の感情をのせるスペースが生まれるのである。トランペットで言うと、マイルス・デイヴィスのノン・ビブラート奏法のようなものか。

僕の持っているのはベスト盤だが、それにしてもあの70年代、四畳半フォークが主流だったころに、これほど品が良くて明るい音楽をやっていたとは。「雨のステーション」を聴かれたし!

今は空中ショーもされるらしいが、そういう面でも恐るべき人だ。天才だ。

ふたたび松坂に思う

 西武の松坂がボストン・レッドソックスと100億円の契約をした。私は割り切れない思いがしている。

 私の近所には、年金5,6万で、病院にも行けない独居老人がたくさんいる。具合が悪くても、病院には行けない。タクシー代が、往復1000円以上かかるからだ。足腰が痛くても、たとえば鍼灸などは保険がきかないので、2500円くらいかかってしまう。

 松坂よ、年俸1億ぐらい手元において、あとの9億を、そういうじいちゃんばあちゃんに分けてやってくれないか。

 私は自由主義・資本主義社会を肯定する人間である。しかしそれでも、このお金の偏りは変だと思う。アメリカは強者と弱者が日本以上に極端だから、こんな結果になるのだろうが、野球選手もかわいげがあるのは、年俸2000~3000万くらいまでだと思う。

 私は松井秀喜が年俸14億になって、応援する気が失せた。そういえば松井のお父さんは何かの教祖らしい。息子の金を喜捨するつもりはあるのだろうか。

 松坂も、余った金を困った人たちに施すような陰徳を積めば、その功徳はめぐりめぐって、いつか自身を助けることだろう。

 以上、金持ちへの嫉妬をちょっと含んだ私の独白でした。

2006年12月18日 (月)

歌舞伎はいらない

 私は歌舞伎にはまったく興味がない。過去に一度見たことがあるが、特に印象は残らなかった。

 まず、現代語をわざとわかりにくく発音する。そして、やたらとポーズをつけてその場を「決め」ようとする。簡単に言うと、底が浅く、偽者くさいのである。

 本物が偽者くさいというのは、悲惨である。偽者であるがゆえに、家柄制度でカモフラージュする。それに幻惑されたマスコミや芸能人が、あたかも上流階級に接するが如く目を輝かせて、集まってくる。

 思い出していただきたい。彼らはかつて河原乞食(かわらこじき)と呼ばれた、最下級の人々だった。「傾く(かぶく)」が語源であるのは皆さんご承知だろう。チンピラだから、隠し子なんて当たり前、彼らにそもそも道徳はないのである。それがいつのころからか変に持ち上げられ、歌舞伎に詳しいことが、あたかも教養人の証であるかのような風潮さえ、できた。ろくに台詞も覚えず、舞台袖から教えられてしゃべっている役者もいるというのに。

 ホテルの廊下で、バスローブから御開チンして女性を喜ばせているような男が人間国宝だというんだから、この国の文化程度はしれたものだ。

 伝統芸能というだけで多額の補助金を出すくらいなら、穐吉敏子や渡辺貞夫に豪邸のひとつも建ててやったらどうだ!

2006年12月16日 (土)

最近の変な言い方

 テレビを観ていると、よくでてくる表現がある。「勇気をもらう」「元気をもらう」。気味が悪い。物じゃないんだから。それをいうなら、「勇気が出る」「元気になる」または「励まされる」である。

私はこういう、甘ちゃんな表現が大嫌いで、これはおそらくメディアの悪影響だと思う。それらしきタレントが格好をつけて言うのが、広まるのだろう。しかし私にとっては、「饅頭をもらう」「きれいな嫁をもらう」のほうが、ずっとうれしい。

ほかにもある。「癒される」という言葉だ。猫も杓子も、なんでもかんでも、いつでもどこでも、みな癒されている。「ああ、わたしはつかれているんだわ、だっていそがしいから、社会に必要とされてるから。だから、癒されようっと」。

そんな乗りである。癒すとは、病を治したい人が使う言葉だ。それを健康な人間が使うなんて、病人に失礼ではないか。そう思うのである。どうせなら、「饅頭に癒される」「たまってた運古が出て、その、出た運古に癒される」「不細工に癒される(自分がブスだから)」のように、使って欲しい。

注:筆者が、特に饅頭が好きというわけではありません。ものの例えです。

2006年12月15日 (金)

養老孟司『無思想の発見』を読んで

 養老孟司の本は以前から好きで、触発される部分が多い。この本はやや難解だったが、読み直して、ほぼ理解できた。

 日本という国はもともと、無思想であって、そのかわりに「世間」が発達しているという。つまり、世間の目とか、恥とかいう縛りはあっても、個人の自由度はかなり高い。哲学・思想を勉強しても、「そんなの何の役に立つんだ」と一蹴されるのが常で、思想は「現実世界」にかかわりのない限りにおいて、存在を許される。

 世間と思想は補う関係にあり、世間の度合いが小さいところほど、思想が大きくなる。というより、必要とされる。個人の自由がないから、人権や社会構造に対して自由思想が叫ばれるのである。逆に日本のような土地柄では、「世間」が大きいので、思想の生まれようがない。必要を感じないのだ。これは恥ずかしいことではなく、それだけ社会が成熟していると見ることもできる。それが「無思想という思想」だと著者はいう。もし日本で思想を叫ぶと、大塩平八郎や三島由紀夫のように、どうしてもテロになってしまう。

 おおかた、そういう内容と解釈したが、私はなるほどと思った。

2006年12月14日 (木)

大衆性とマニアックについて

 音楽でも絵でも、大衆性を目指すか、マニア受けをねらうかという問題が、常にある。

 ジャズという音楽は、聴く人がまず少ない。そこでより多くの聴衆を開拓しようと思えば、メロディーは単純に、アドリブは音数少なめに、あるいはジャズ的なフレーズは避けて、と考える。そうすると、前述のように期せずして否定的な表現が増える。裏返すとジャズファンは、そうでないのを求めているのだから、一般のファンは増えようがない。

 ジャズ的に内容があっても、いい耳をもった少数の人に評価されるだけで、食えない。世の中のビジネスのほとんどは、「あなたが欲しいものを、お作りしますよ」の姿勢で成り立っているものである。しかし芸術は「おれがいいと思うものを、おまえもいいと思え」という態度なんだから、食えないのが当たり前といえば、当たり前だ。

 しかし大衆に受けるということは、「旬」「流行」という言葉に象徴されるように、使い捨てなのである。おいしい野菜は早めに食べて、食べたらすぐ忘れる。しかし少数の人は、野菜の彫刻をいいなあ、とほめるかもしれない。腐れる心配がないし、年月にも耐えるのだ。

 何が言いたいか混乱してきたので、この辺でやめます。

2006年12月13日 (水)

天気の理屈

 珍しく『Newton』を買ってみた。天気のしくみを解説している。なるほどと思った点をご紹介したい。

 まず、日光により多く当たるところに雲ができるらしい。空気が上昇し、中の水分が雲になるのだ。地球は地軸が傾いているので、日本の夏は北緯20度あたりに直射日光が当たる。すると北半球に雲が発生しやすい。逆に冬は南緯に当たるので、南半球側に雲が多くできる。

春と秋は赤道に日光が当たるので、その付近に雲ができるのである。そういう仕組みだという。なるほどと思った。これで、夏から秋にかけて台風や大雨があったり、冬に晴れた日が多い理由がわかった気がする。これに自転方向の力が加わって、貿易風(大西洋の北東から南西にかけての風)や、偏西風が起きたりするという。

ほかにも、日本の北風は、シベリアから南下する風がヒマラヤ山脈にぶつかって行き場を失い、それが左へ流れてくるものだというのも、興味深かった。

 だいたいそんな内容だと解釈したが、これでよかったのかな。地球さん、おしえてね。

2006年12月12日 (火)

地方局の標準語

 地方局のアナウンサーは、地元採用の人と、県外出身者とがいるらしい。地元の人も、何とか標準語(共通語)らしくしゃべろうとしている。おそらく裏で訓練しているのだろう。

それでも、そこに天気予報のお兄さんが加わり、どうにも珍妙な「東京風」イントネーションで話し始めると、それに影響されて、若い女性アナウンサーの抑揚も崩壊し始める。するとどこに基準があるのかわからなくなり、迷走が止まらない。明らかに、変だ。これは、いったい何語だ?!

大阪を舞台にしたドラマに東京出身の俳優が出ているときも、同じ気持ち悪さを感じる。

私はそれで「大誘拐」という映画を途中でやめてしまった。そういえば幕末のドラマで、鹿児島弁をきちんと話す俳優を見たことがない。鹿児島県民にとっては「跳ぶが如く」もつらかったのである。それなら標準語で通したほうがいい。

言葉も地産地消が一番だと思った。

なお、よくニュースなどで見かける、地方で街頭インタビューを受ける人のイントネーションの多くは、標準語のそれに近づけようと努力したものであり、地元民の普段の会話のそれとは違うことを、首都圏の人は知っておいたほうがいい。

2006年12月11日 (月)

ギタリストのタッチ

 アメリカに限らないが、一流といわれるギタリストと、日本のギタリストの大きな違いは、タッチにあると思う。タッチとは、音の出し方、具体的にはどのように弦に触れ、振動させ、指を離すか、ということだ。

僕の好きなギタリストはパット・メセニーやアール・クルーだが、メセニーの場合は、ピックの側面で弦をはじくという。サウンドに滑らかさを出すためらしい。しかも実にソフトに触れ、ソフトに離れるから、サウンドがうねうねと続き、とてもなめらかでグルービーになる。そしてサウンドに厚みが出る。

たいして日本のギタリストは、一概には言えないが、日本のエレキが「テケテケ」と表現されるように、一音一音がぶつぎれになっていて、日本語のア・イ・ウ・エ・オ、カ・キ・ク・ケ・コ、そのままなのだ。逆に言うと、アメリカ人奏者は、英語をしゃべるように弾いている。そう、つながっているのだ、レガートに。

いくらいい内容の演奏をしていても、この点が克服されない限り、日本のギター界に明るい未来はない。

2006年12月10日 (日)

大相撲巡業

 大相撲の巡業がやってきたので、行ってきた。朝青龍の土俵入りを見る。手を広げるときの弾むような動きはテレビで見るそのままだ。土俵の中央に出、手を打ったとき「よいしょー」と叫んでしまったが、実際は四股のときに言うべきもので、私は浮いてしまった。

 勝負自体はまったく真剣みはないが、このゆるさが巡業というものだろう。これがあっての本場所の集中力と想像すれば、それも仕方ないかもしれない。

 土俵下で出番を待つ雅山に、前二組の負け力士が飛び込んでいって、雅山は参ったなあという顔をしていた。同じことを千代大海もされていたが、本人にだまってやった、いたずらだろう。ちょっとおかしかった。また、朝青龍が塩を掴むや、背中側に振りまき、それを浴びたじいちゃんばあちゃんが「うひゃひゃひゃ」と喜んでいたのも趣があった。

 なんといっても、貴乃花親方が勝負審判で来ていたのがよかった。終了後、出口で待っていたら、黒のトレンチコートを身に纏った親方が出てきた。おおすごい。宮沢りえと同じくらい痩せていたが、格好よかった。背は185cmくらいだろうか。

2006年12月 8日 (金)

蝿をつぶす

 さっきからブンブンとうるさいのは何だ。蝿だ。蝿が飛んでいる。十二月だというのに。私の体にまとわりつく。腕にとまったのをはらうと軽く旋回しておでこにとまる。また手ではらうと後ろを回って左腕にとまる。肩をあげて除けると、頭にのる。いらいらしてきて首を左右に振ると今度は鼻の頭に止まりやがった。もうがまんがならない。そのままの姿勢を保ちながら丸める新聞紙はないかとあたりを見回すが、ない。しかたがないから鼻をはじいた。

 ふとテレビを見ると、サッカー女子日本代表と中国代表の試合をやっている。おや、なかなかいい試合をしているじゃないか。日本のほうがうまいぞ、よし、そんな感じだ。

 と思っていたら、畳の上を蝿が近づいてくる。つつ、つつ。膝下に入ったあたりで無意識に右手でべたとやったら、蝿はつぶれてしまった。

 なんだ、意外と簡単に取れるものなのだ。そう、取ろう取ろうとするうちは、蝿にもそれが伝わるのだろう。うまくいかない。心が無になるとき、自分が何をしようとしているかを忘れたとき、意外と目的は達成されるのかもしれない。私は蝿から仏教を教わった気がした。ぎゃーていぎゃーてい。

2006年12月 7日 (木)

なぜ巨人は

 今年も巨人はフリーエージェントの選手を釣り上げた。日ハムの小笠原、オリックスの谷。さらにはわが横浜から門倉も採りそうである。

 できあがった他チームの選手を集めるのではなく、自チームの若手を育てる方針に変えたのではなかったのか。もうあきらめてしまったの?

 これでは単なる「巨人」という名の箱であって、中身は毎年入れ替わり、巨人ファンは応援のし甲斐がないだろう。スタッフがまるで「われわれには育てる力がありません」と宣言しているようなものだ。

 巨人の不安要素はほかにもある。伊原コーチが加わったことだ。原監督の意思かどうか知らないが、元西武の優勝監督である。うまくいくのだろうか。「船頭多くして船山に登る」、来年も優勝はあるまい。

 と、他チームの心配をしていたら、横浜の多村とソフトバンクの寺原のトレードが発表された。村田・吉村の成長があったので、投手のてこ入れをしようと首脳陣が判断したためだろう。多村は好きな選手であったが、やむをえない。寺原はいい投手なので、少し楽しみだ。大矢監督が横浜を優勝に導いてくれるものと期待している。

2006年12月 6日 (水)

挨拶のタイミング

 うちの近くにはまっすぐに伸びた散歩コースがあって、私は夕方散歩するのだが、母は朝早いうちに散歩する。そのときの悩みが、挨拶のタイミングである。知らない人が向こうからやってくる。一応「おはようございます」というのだが、横断歩道を渡って戻ってくるあたりで、また同じ人とすれ違うことになる。「また会いましたね、あははどうも」と実に気まずい感じになるらしい。

 私の場合は、すれ違うちょっと手前から下を向き、こちらはあいさつをする気がないことを示し、その場をやりすごそうと試みる。すると相手もそれを察知して何も言わずに通り過ぎる。都会で身につけた私流の対処法である。

 しかし、知っている人が遠くから歩いてくる場合はどうか。向こうもこちらをわかっている。知らん振りはできない。いったい、いつ気づいたふりをし、どのタイミングで顔を上げ、どんな表情であいさつをしようか、と思い悩むことになる。

散歩も楽ではない。この世は住みにくくできているらしい。

2006年12月 5日 (火)

ウィントン・マルサリスの不思議

 それにしてもウィントン・マルサリスというトランペッターは不思議である。技術、演奏の中身、リズム、どれをとっても最高、しかしまったく訴えないのである。

新作CDが出たらすぐ買いに行き、あまりのすごさに一週間そればかり聴くのだが、そのあと全く興味が失せ、円盤にして外に飛ばしてやろうかとさえ思う。

 音楽家には二種類あるようだ。とてもうまいのに、感動させられない人。あまりうまくないのに、感動させる人。原因は、そのプレイヤーのルックスだろうか、人間性だろうか、あるいはDNAに組み込まれた才能の違いだろうか。

私見だが、ウィントン・マルサリスは、音楽家として一番重要な才能以外のあらゆる才能を持って生まれた。そして彼の技術を聴く(あるいは見る)ために、今も多くの聴衆がコンサートに集う。

ひょっとしたら、彼のウンコは、透明かもしれない。

2006年12月 4日 (月)

クリフォード・ブラウンの偉大

 歳を経るにつれて、クリフォード・ブラウンへの思慕の情がつのる。なんとすごいジャズ・トランペッターであったことか。1956年、25歳の若さで、生涯二度目()の交通事故で死んでしまった。実働4年、その音楽的成果はエベレストをも凌がんかという高みにあり、いまだだれも超えることができない。

 ラジオから流れる「メモリーズ・オブ・ユー」を耳にしたのが最初だった。音色、フレーズ、リズム、すべてが魅力的だった。そのとき私中学生。人間とはこうもすごいものかと思った。

 何十年活躍したつもりでも、その数十年後、録音を聴いてもらえる人がどれだけいるか。それを考えた場合、ブラウンやブッカー・リトルのすごさがわかる。彼らは、たとえ数年の活動であっても、人は歴史に名を残せるという好例である。それはもちろん、内容が抜群だから。現在の人でいえば、トム・ハレルの80年代後半~90年代前半もそれに当たるだろう。

私もいつかは、人生のハイライト・タイムを作らなければ!ああ!

ビギナーの方へのお勧めCDClifford Brown『クリフォード・ブラウン・ウィズ・ストリングス』、Booker Little『ブッカー・リトル』

2006年12月 3日 (日)

『源氏物語』を読んで

 日本の名作として知られる『源氏物語』を読んだ。与謝野晶子訳である。前からいつかは読まなければという変な強迫観念があって、このたびようやく読み終えたのであったが、印象としては特筆すべきものはなかった。

なにしろ主語がはっきりしないので、だれがだれを好きになったのか、だれがだれの子供なのか、わからないのである。とにかく貴族たちの、ほれたはれたが延々と続くのだけはわかった。

私は登場人物の心情がどうだとか、そんなことよりも、このような暇をもてあました人々を食わせるために働き続けた農民たちの苦労が偲ばれて、涙が出そうになった。

異常な作家川端康成が、三島由紀夫の『豊饒の海』を称して「源氏以来の傑作」といったが、私は『豊饒の海』のほうが十倍優れていると思う。どうだろうか。

2006年12月 2日 (土)

地上デジタル始まる?!

 鹿児島まで新幹線に乗って行ってきた。駅前で大々的に地上デジタル放送開始のイベントをやっていた。とはいえ、まだ鹿児島市周辺だけらしい。

 そもそも地デジとは何か?テレビを見ていてもぜんぜん説明してくれない。昔、手紙をポストに入れたら地中をずーんと通って目的地まで届くと思っていた私には、なんのことやらわからない。

デジタル信号が地面を這って進むのか?空中を0と1がテロテロテロテロと漂ってくるというのか?

 テレビ画面では各局のアナウンサーが地デジ大使とかいってニコニコ笑っている。おまえそんなことも知らないのか、と笑われているようでつらい。こんな僕でも量子論や相対性理論の本は読んだのである。でも答えは見つからない。

 テレビ局が説明に前向きでないのは、テレビの買い替えを強いるという、負い目があるからかもしれない。いずれにしても、私にとっては地上デジタルよりも、地上タルタルソースのほうが有り難い。

2006年12月 1日 (金)

ロシアの闇

 それにしてもロシアという国は恐ろしい。ジャーナリストのリトビネンコ氏がイギリスで毒殺されたと報じられた。おそらくプーチン大統領の指示であろう。思うに、国にはその国柄・国民性というのがあって、これは簡単には変わらないし、変えられないもののようだ。

中国やソ連のような社会主義国家は、社会主義国家になってしまう土壌というか、少数の権力者が多数を押さえつけるのが国のありようとして共通に認識されているのではないかとさえ、思える。たとえそれに不満を持つ人が大勢いても、彼らはある種の諦めを感じているのではないか。

中国が靖国参拝に対して抗議するのも、個人の思想までコントロールすることを日常としている人々と考えれば、わかりやすい。私は日本人で本当によかったと思う。そしてこの国に共産政権が生まれなかったことは、国民のひとつの英知の表れではなかろうか。

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