2006年12月29日 (金)

山田洋次と武士

 私は山田洋次監督の映画が好きで、寅さんシリーズはもちろん、高倉健主演の『遥かなる山の呼び声』など、挙げたらきりがない。それはなにより、山田洋次が人間をわかっているなあ、と思わせるからである。

 「美しい日本」はもはや、『男はつらいよ』と司馬遼太郎、藤沢周平の中にしかないのでは、と思う。

 そういう意味で、山田洋次が藤沢作品を取り上げたのは、必然という気がする。時代物2作目の『隠し剣 鬼の爪』は見事だった。最新作も期待できる。

 読売新聞の「時代の証言者」という囲い記事で、山田洋次が「時代劇の殺陣は動きがパターン化していて、あれでは隙がありすぎて斬られてしまう」旨の発言をしていたが、そのとおりだと思う。私も古武術の稽古会に行ったりしたのでよくわかる。さすがは山田洋次だ。宮本武蔵はべた足だったのである!今の剣道は単なるスポーツである。前後にぴょんぴょん跳ねている。

 記事によると、明治の古老の目撃談として、本物の果し合いは2,3時間もかかり、両者くたびれ果てた末に、一方が出血多量で倒れたという。じつに興味深い話だ。

 北野武の座頭市では、斬られはしても、決して斬ることは出来ない。

2006年12月27日 (水)

「忠臣蔵」について

 私は「忠臣蔵」が好きでない。まず、一人を殺すのに四十七人が死ぬのでは、効率が悪すぎる。しかも、やるなら一対一でやらねば卑怯である。もちろん、吉良邸の家人も複数殺したらしいが。

 常識的に考えて、刃傷沙汰が禁止されている松の廊下で、刀を抜いた浅野内匠頭側に非があるのは事実だ。吉良上野介に何を言われようとも、言葉で返すべきで、そこに少しの皮肉でも含めば、吉良も黙ったことだろう、「こやつ、やるな」と。その知恵もなくすぐ行動に出るのでは、あまりに幼すぎるではないか。

 また、吉良側の言い分も聞いてみなければ、吉良自身が悪かったのかどうかもわからない。毎年暮れになるたびに、吉良家の末裔の皆様は、忸怩たる思いをされているのではないか。私にはお気の毒に思われる。

吉良家の御当主には、ぜひテレビか何かで主張してほしい。しかし、テレビ局側がOKしないだろう。なんといっても「忠臣蔵」はドル箱なのだから。

浅野内匠頭は源義経のような人だったのでは、と想像する。それにしても、四十七人は多すぎる。その効率の悪さが日本人の琴線に触れるのだとしたら、社会保険庁その他の無駄遣いもわからんではない。効率の悪いのが好きなのである、日本人は。

泉岳寺に行った時、赤穂浪士の墓が並び、線香がもうもうと焚かれていたのを思い出す。

2006年12月26日 (火)

ジェットコースター

 男に比べて女のほうがジェットコースターを怖がらないのは何故なのか?私が長年疑問に思ってきたことである。

 私の場合、ディズニーランドの「スペースマウンテン」、「スプラッシュマウンテン」はもとより、「ぷーさんのハニー・ハント」でさえ恐ろしかった。「ハニー・ハント」は、動きが予測できないのと、直前に食べ過ぎたせいもあるかもしれないが、少し気持ち悪くなった。

 推測に過ぎないが、自分がもし戦場で、これから死ぬかもしれない前線の兵士だったとしても、これほどの恐怖感は感じないと思う。だって地上だから。男にとっては地上が一番安心なのである。ジェットコースターというものは、ひょっとして、安全を前提とした上で、空中という実体のないところを進むという矛盾が、恐怖感を生むのだろうか。

 なぜ女は、そういう状況を嬉々として楽しめるのか。もし落下している最中に、そのまま空中に放り出されたらどうする?その瞬間も笑っていられるのか?あははは、と。

 ううむ、ここには男と女の根本的な謎が存在するようだ。

 と、あれこれ考えることで恐怖を振り払いつつ、私は今、観覧車の頂上で、震えている。

2006年12月25日 (月)

M1グランプリを観て

 ご存知のとおり、漫才のコンテストである。「チュートリアル」というコンビが優勝した。それには異論がない。昨年の出来もすばらしかった。

 それより私が一番気に入ったのは、女性OLのアマチュア・コンビ「変ホ長調」であった。「フットボール・アワー」に代表される、中身のない不自然な設定の中で叫びあったり、勢いだけで押し切ろうとするコンビの中にあって、彼女たちは唯一社会性のある話題を織り込んだ展開で、実に楽しかった。

 ゆっくりしたテンポで、「どうやったらヒルズ族の合コンに参加できるか」という話を、風刺を交え、ある種自虐的に、トウの立ったOL二人が紡いでいくのである。たとえば女子アナになれば参加できるのではないか、それなら高橋秀樹の娘に生まれればいい、などと展開していく。

 げらげら笑った私は高得点を期待したが、審査員は非常に低い評価だった。とくに松本人志の点が低かった。コメントを求められた島田紳助も「おれにどう評価せえっちゅうねん」と、困っていた。

 彼らにはおそらく漫才はこうあるべき、という固定観念があって、いわば「漫才村の長老」つまり「権威」に「成り下がって」いて、社会の出来事や普通に働く人の感受性がわからないのである。それが観ていてどうにもつらかった。

 ひとつ救いなのは、中田カウスが、「彼女らはアマチュアのプロです。私は彼女たちの『間』に学ばなきゃいけない」と正当な評価をしていた点。私は、やや溜飲を下げた。

2006年12月23日 (土)

隣のけむり

 おとといから隣のおばさんが、もうもうと焚き火を炊き続けている。まったく、こちらは気管支炎で苦しんでいるというのに。

 隣の家の向こうは田んぼが広がっているため、常に風はそちら側から吹き、煙は私の方の住宅地が浴びることになる。田舎特有の無神経ぶりだ。ごみで出せばいいではないか。

 おそらく落ち葉を集めたのを焼いているのだろうが、その煙の量たるや、化学工場の火災並みである。しかし本人にはまったく煙が来ないため、ゆうゆうと焚いている。

 もうがまんがならない。私は意を決してバケツに水を汲み、裏の川沿いをつつっと進み、その焚き火に上からかけてやった。ジュウ。

 これでなんとか息がつける。そう思ったのもつかの間、また庭の別の場所で焚き始めた。ああ、頭に来る。自分の出した煙は自分がすべて吸え!それが自己責任ということだろうが!

そう思ったが、田舎というのはそんなもの。だいたい市民がそんな感じだから、自治体もそれと同じレベルになる。しかたがない。私がここを去ればいいのだ。

2006年12月21日 (木)

神社と寺

 年の瀬が近づき、クリスマスや新年ももうすぐだ。一年ははやい。大晦日には今年も多くの人が、除夜の鐘を聞き、初詣に行くのだろう。

 いったい日本人は何教なのだろう、というのは今までも疑問に思ってきたが、最近、山本七平の本を読んで興味深いことを知った。

 明治元年(1868)、政府により「神仏判然令」というのが公布されるまで、神道と仏教は一体だったというのだ。寺の境内に神社があったり、神社に社僧といわれる坊さんがいたりしたという。

 なるほど、それなら寺に賽銭箱があってもいいわけだ、と変に納得してしまった。そのうち、神社にクリスマス・ツリーが飾られたり、寺の本尊にマリア像が置かれたりするかもしれない。それはそれで、無頓着な感じが、おおいに日本的でよろしい。

 と、思った篠突教教祖、雨次郎さまであった。

2006年12月19日 (火)

ふたたび松坂に思う

 西武の松坂がボストン・レッドソックスと100億円の契約をした。私は割り切れない思いがしている。

 私の近所には、年金5,6万で、病院にも行けない独居老人がたくさんいる。具合が悪くても、病院には行けない。タクシー代が、往復1000円以上かかるからだ。足腰が痛くても、たとえば鍼灸などは保険がきかないので、2500円くらいかかってしまう。

 松坂よ、年俸1億ぐらい手元において、あとの9億を、そういうじいちゃんばあちゃんに分けてやってくれないか。

 私は自由主義・資本主義社会を肯定する人間である。しかしそれでも、このお金の偏りは変だと思う。アメリカは強者と弱者が日本以上に極端だから、こんな結果になるのだろうが、野球選手もかわいげがあるのは、年俸2000~3000万くらいまでだと思う。

 私は松井秀喜が年俸14億になって、応援する気が失せた。そういえば松井のお父さんは何かの教祖らしい。息子の金を喜捨するつもりはあるのだろうか。

 松坂も、余った金を困った人たちに施すような陰徳を積めば、その功徳はめぐりめぐって、いつか自身を助けることだろう。

 以上、金持ちへの嫉妬をちょっと含んだ私の独白でした。

2006年12月18日 (月)

歌舞伎はいらない

 私は歌舞伎にはまったく興味がない。過去に一度見たことがあるが、特に印象は残らなかった。

 まず、現代語をわざとわかりにくく発音する。そして、やたらとポーズをつけてその場を「決め」ようとする。簡単に言うと、底が浅く、偽者くさいのである。

 本物が偽者くさいというのは、悲惨である。偽者であるがゆえに、家柄制度でカモフラージュする。それに幻惑されたマスコミや芸能人が、あたかも上流階級に接するが如く目を輝かせて、集まってくる。

 思い出していただきたい。彼らはかつて河原乞食(かわらこじき)と呼ばれた、最下級の人々だった。「傾く(かぶく)」が語源であるのは皆さんご承知だろう。チンピラだから、隠し子なんて当たり前、彼らにそもそも道徳はないのである。それがいつのころからか変に持ち上げられ、歌舞伎に詳しいことが、あたかも教養人の証であるかのような風潮さえ、できた。ろくに台詞も覚えず、舞台袖から教えられてしゃべっている役者もいるというのに。

 ホテルの廊下で、バスローブから御開チンして女性を喜ばせているような男が人間国宝だというんだから、この国の文化程度はしれたものだ。

 伝統芸能というだけで多額の補助金を出すくらいなら、穐吉敏子や渡辺貞夫に豪邸のひとつも建ててやったらどうだ!

2006年12月15日 (金)

養老孟司『無思想の発見』を読んで

 養老孟司の本は以前から好きで、触発される部分が多い。この本はやや難解だったが、読み直して、ほぼ理解できた。

 日本という国はもともと、無思想であって、そのかわりに「世間」が発達しているという。つまり、世間の目とか、恥とかいう縛りはあっても、個人の自由度はかなり高い。哲学・思想を勉強しても、「そんなの何の役に立つんだ」と一蹴されるのが常で、思想は「現実世界」にかかわりのない限りにおいて、存在を許される。

 世間と思想は補う関係にあり、世間の度合いが小さいところほど、思想が大きくなる。というより、必要とされる。個人の自由がないから、人権や社会構造に対して自由思想が叫ばれるのである。逆に日本のような土地柄では、「世間」が大きいので、思想の生まれようがない。必要を感じないのだ。これは恥ずかしいことではなく、それだけ社会が成熟していると見ることもできる。それが「無思想という思想」だと著者はいう。もし日本で思想を叫ぶと、大塩平八郎や三島由紀夫のように、どうしてもテロになってしまう。

 おおかた、そういう内容と解釈したが、私はなるほどと思った。

2006年12月 2日 (土)

地上デジタル始まる?!

 鹿児島まで新幹線に乗って行ってきた。駅前で大々的に地上デジタル放送開始のイベントをやっていた。とはいえ、まだ鹿児島市周辺だけらしい。

 そもそも地デジとは何か?テレビを見ていてもぜんぜん説明してくれない。昔、手紙をポストに入れたら地中をずーんと通って目的地まで届くと思っていた私には、なんのことやらわからない。

デジタル信号が地面を這って進むのか?空中を0と1がテロテロテロテロと漂ってくるというのか?

 テレビ画面では各局のアナウンサーが地デジ大使とかいってニコニコ笑っている。おまえそんなことも知らないのか、と笑われているようでつらい。こんな僕でも量子論や相対性理論の本は読んだのである。でも答えは見つからない。

 テレビ局が説明に前向きでないのは、テレビの買い替えを強いるという、負い目があるからかもしれない。いずれにしても、私にとっては地上デジタルよりも、地上タルタルソースのほうが有り難い。

2006年11月30日 (木)

松坂と井川

 松坂と井川がポスティングシステムで大リーグへの移籍が決まりそうである。それぞれ60億円と30億円とのこと。私の個人的な感想を言わせていただくと、西武ドームで何度か観戦した松坂の印象は、なんだかずんぐりした人が投げてるなあという程度であった。それほど球が速いという感じもない。つまり見栄えがしないのだ。

そこへいくと桑田や清原は雰囲気からして違った。どうしても見てしまわせる、という感じだ。おそらくそれがスターなのだろうが、松坂が投げる試合でも西武ドームはほぼがらがらであったことを考えると、アメリカでも成績は残すと思うが、観客が見て楽しめるかというと、はなはだ疑問である。

見られる仕事はすべてエンターテインメントだから、そういう意味では井川に断然期待したい。

2006年11月29日 (水)

カラスの乱舞

夕方散歩をしていた。ふと空を見上げると、カラスの群れが右から左へ飛び、ぐるりと旋回して山へ向かった。低空を飛ぶのは大きく、高空を飛ぶのは点に見える。その数たるや寒気がするほどだ。

しばらく歩いて交差点に差し掛かると、四角を囲むように電線にびっしり並んで留まっている。ああ気持ちわるい。かあかあ、があがあ、かあかあ、あがあが。

 地面にはカラスの糞がいたるところに落ちている。高いところから落とされるためか、どの糞爆弾も放射状のデザインになっている。場所によってはまるで白ヒトデの群のごとくである。運が悪いと頭にあびることになる。

上を警戒しながら私は、あたかも置屋の暖簾をくぐる花魁のように体を傾斜させてすすむ。花魁のように派手ではないので、標的にされる心配はなかろう。しかしいっときも気が抜けないので、家につくころの私はくたびれ、なぜか日舞の名取のような身のこなしになっている。

お弟子さんでも取ろうかしら。ちょいとちょいとん。

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